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「観る」

富士屋ホテル(古川緑波)| 美味しい文学

「観る」

「美味しい文学」では、読むとお腹がすく、食いしん坊のための名作文学をご紹介します。今回取り上げるのは、古川緑波の「富士屋ホテル」(1959年初出)。現在も名宿として名高い「富士屋ホテル」では、戦前戦後どのようなメニューが提供され、どのような食事風景が展開されていたのか。緑波の軽妙な文体から、当時の空気感や、今と変わらない”食べること”の愉しさが、手に取るように伝わってきます。

 


 

箱根宮の下の富士屋ホテルは、われら食子にとって、忘れられない美味の国だった。

戦前戦中、僕は、富士屋ホテルで、幾度か夏を過し、冬を送ったものだった。それが、終戦後、接収されて、日本人は入れなくなってしまった。そして又、それが一昨年の夏だったか、解除になって、再び日本人も歓迎ということになり、ホテルから通知が来た。

行きたいとは思いながら、暇もなかったし、又一つには(と言って、実は、これが重要な点であるが)高いだろうなあと思って、今まで行く機会が無かった。

戦前から戦後にかけての値段は、三食と、お八つ(コーヒー又は紅茶に、トースト)が附いて、バス附の部屋で、一泊二十円(サーヴィス料一割)位だった。さあそれが、今の世の中では、一体幾ら位になっていることだろう。

再開の通知を貰うと、折返し、値段を報せろと言ってやったので、それが届いた。三食附のアメリカンシステムではなくなって(戦後アメリカンシステムではなくなったのは面白い)(面白かあないか)食事は別になっている。そして、僕の計算によると、戦前の一泊二十円は、大体に於て、五千円位になるのではないか。但し、三食は食うが、酒を飲んだらそれでは済むまい。(それは、戦前とても同じではあるが)となると、安くないからなあ。今の僕の身分と致しましては、一寸考えちまった。それが、此の三月のことである。スポンサーが附いた(つまり、万事奢ってくれる人が出来たこと)。行ってみようじゃないかということになって、而も、東京から彼スポンサー氏の自ら運転する自動車(無論自家用のパリだ)で、富士屋ホテルの玄関へ、堂々と到着した。

まことに、いい気持であった。

玄関で、自動車を下りた途端に、四辺を見廻しながら、

「うーん、昔のまんまだねえ」

と言ってしまった。戦災を受けていないから、当たりまえである。そして、花御殿という離れの一室に、落ち着いたのであるが、さて然し、此処の食堂も昔のまんまだろうか、と心配になってきた。

昔の、富士屋ホテル。

ここで、溶暗ーー溶明。

昭和十五年の、僕の食日記が登場する。昔の富士屋ホテルの姿である。

一月三十一日 夕方、宮の下富士屋ホテル着。夕食=白葡萄酒(ソーテルン)小壜一本。オードヴルが、実によく、ビフテキ、プディング、美味し。

二月一日 朝食=オレンジ・ジュース、オートミール、煎り卵、コーヒー、トースト。昼食=オードヴル、ポタアジュ、車海老のフライ、鶏とヌードル。夜食=ローストビーフが、よし。

二月二日 朝食=煎り卵と、コーンビーフ・ハッシュ。昼食=マカロニ・メキシカン、車海老のカレーライス。夕食=トマトクリームスープと、プラム・プディングが、よかった。

二月三日 朝食=オートミールと、煎り卵。昼食=ポタアジュ、よし。ボイル・ディナーと、ポーク・ソーセージ。夕食=ソーテルン一本。

もう二三日滞在したのだが、此の辺にして置く。

ただ、これだけは、メニュウを披露しただけで、その美味さを伝えることは出来ないが、毎食、僕は、タンノウし、此処は何と言っても、一流中の一流の味だと感心していたのである。昭和十五年といえば、まだアメリカとの戦争前だから、物資も、それ程不足していなかった、ということも、このメモで分る。

戦争苛烈となり、愈々セッパ詰って来ると、流石に富士屋ホテルも弱って来て、食事の量は半分以下になり、とても僕など一人前では足りないので、食堂で定食を食うと、大急ぎで、グリルへ駆けつけて、又食うというようなことになって来た。何うも僕は、大食いのようだ。

今更、大食いの「ようだ」なんて言うのは可笑しいが、自分でも、一種の大食いだとは思っている。美味いものなら、いくらでも食えるからである。不味いものとなったら、全く食わない。

大食いで思い出したが、やっぱり此の富士屋ホテルで、面白いことがあった。たった一人で、或る冬のこと、十日間ばかり、此処に滞在したことがある。外に雪が降っていたから、冬に違いない。

或る晩、その雪の降るのを、窓外に眺めながら、食堂へ行くと、客は、まばらで、空いていた。大分滞在も長くなって退屈だから、何か変ったことにぶつかりたくなっている。

こんな時に、一つ試みるかな?

というのは、僕が此処へ来る度に、大分以前から考えている企画なので、食堂のメニュウを上から下まで全部食ってみよう、という試みなのである。

メニュウは、好みで選ぶようになっているが、全部食ったって、値段は同じわけだ。だから、こんな時に、暇にあかして、上から下まで、みんな平げてやろう。

そう思ったのだが、流石に、これは、アッサリと、「全部食ってみせるから、持って来い」とは言いにくい。

で、傍に立っているボーイに、

「ねえ君、此処には随分方々の国の人が来るだろうが、何国人が一番大食いかね?」

と聞いてみた。

こういう風にして、からめ手から、段々と攻めて行こうという腹なんだ。

ボーイは、こっちに、そんな企みがあるとは知らない。

「インドの方が一番よく召し上るようでございますな。フランスなんかも割合に、大食の方が多いようで——」

なんて答えた。

「フーム、日本人は何うだい?」

「日本人でも、随分召し上る方が、ございます」

「でも、このメニュウを、上から下まで、全部食った、なんて人は、日本人には居ないだろうね?」

「いえ、それが、ございます。何とか会社の社長さんの坊ちゃんで、ラグビーの選手でいらっしゃいますが、その坊ちゃんが、メニュウ全部召し上がりましたよ」

「ホホウ、そうかね。それじゃあ一つ、俺もやってみようか」

「ハ?」

「いや、その坊ちゃんみたいに、俺も、全部食ってみようか」

「ハア」

ボーイは、呆れたような顔をしたが、次の瞬間には、面白くなったらしい。

「では、早速お持ち致しましょう」

と、勇んで、一旦テーブルを去った。

で、これから、先ず、オードヴルから、スープは、コンソメ、ポタアジュの二つを平げ、順々に十数種を食うことになるのである。

然し、何うです、僕の、話の持ちかけ方ってものは、うまいもんでしょう?

からめ手から、攻めて行くところなんか、うまいと思うんだが、そうでもないかな。

兎に角、メニュウを、全部上から下まで食ってみようじゃないか、ということになって、僕は、ひそかに、バンドをゆるめて、待ち構えていたのであった。

ここに、一寸御参考までに、富士屋ホテルの食堂のランチのメニュウを御紹介する。

これは、戦後、つい最近の、つまり僕が行った時のものであって、昔のは、もっと豊富だったと思っていただきたい。が、先ず、此処に掲げたメニュウを、読者諸子が、上から下まで全部食べるんだ、そういう運命になったんだ、と思って、眺めていただきたいのである。

LUNCH
Sunday March 18th 1956
~~~~~
APPETIZER
1 Supreme of Grapefruit and Orange
SOUP
2 Potage à la Su é doise
3 Hot Consomme en Tasse
FISH
4 King Fish Saute Baloise
ENTRÉE
5 Glorious Lamb Stew
VEGETABLE
6 Buttered Brussels Sprouts
7 Corn Fritters
8 Whipped Potatoes
CHOICE OF
9 Grilled Chicken Piquaute
10 Prawn Curry and Rice
SALAD
11 Grand Union Salad
DESSERT
12 Crepes à la Suzette
13 Bavaroise Napolitaine
~~~~~
14 Assorted Fruits
Coffee Tea Green Tea
\ 1,000
FUJIYA HOTEL
Miyanoshita
Inspection of Kitchen
Cordially Invited

1は、こりゃあ何でもない。

が、スープの部へ入ると、2は、ポタアジュで、3が、コンソメである。これを両方とも吸い尽さなければならない。この辺で、ヘコタレては、問題にならない。

4の魚から、5のラムシチュウと平げて、野菜は、678とも皆食べてしまわなければならない。そして、此の辺から段々むずかしくなる。

チョイスと書いてあるが、無論、此の際、チョイスなどしてはいられない。9の、グリルド・チキンと、10の海老のカレーライスが、二つとも運ばれて来る。これを皆胃袋の中へ収めてしまうと、11のサラダから、デザートに入る。ここでは、12のクレープ・スゼット、13のバヴァロアの二種。それから、果物の何種類かを食べて、コーヒーを飲み、紅茶を飲み、そして、此処に書いてあるからには、グリーン・ティーも飲まなくてはならない。

——という次第です。如何ですか?

無論、この位なら行けると思われる方もあるだろう。が、随分大食と言われる人でも、うんざりだ、と言って降参する方が多いんじゃなかろうか。そして、これは、はじめにも言った通り、戦後の、而も、ランチのメニュウなのだ。

昔の富士屋は、もっと品数が多かったし、ディナーのメニュウともなれば、更に豊富だったに違いない。

で、僕は、ディナーの際に、此の冒険を試みたのである。

先ず、オードヴルから始まって、スープ二種、魚が二種、肉も二種、野菜もふんだん。はじめっから自信は、あったんだが、やってみると、割に楽だった。

大したことはないじゃないか、と心の中で思う。然し、胃袋が、大分前方へ、せり出して来たようだ。

サラダが終って、デザートに入る。と、しめたものだ。僕は、甘いものが大好きで、脂っ濃いものの後なら、益々いい。今でも僕は、温いプディングなんかには目が無くて、必ずお代りをしてしまう。(わが糖尿病に栄光あれ)

そんな風だから、お菓子の二三種類位は、何でもありはしない。ペロペロと平げた後が、コーヒー、紅茶に、グリーン・ティー。

「なァるほどねえ」

と、傍に立って、見ていたボーイが、感心した。

本来は、チョイスのシステムであるから、これだけ食われては、その頃にしても、合わなくなったろうが、さりとて、アメリカンシステムで、食事代は、宿泊料にこめてあるのだから、別に金を取るわけには行かない。そういう次第で、第一夜は成功、全部平げた。

別段、胃袋をこわすようなこともなく、翌朝は又、適当に腹が減っていた。

で、朝食のテーブルに就くと、ボーイの方で心得ちまって、朝のメニュウも全部運んで来た。

ジュース二三種、オートミール、コーンフレークス、それに卵の料理が、五六種類。マフィンに、クラッカー、トースト等々。

こんなものは、何でもない。

ホットケーキに、コーヒー、ココア、紅茶、皆歓迎だ。

かくて、僕は、此の食堂に於ては、必ず、メニュウの全部を運ばせることに、定ってしまったのである。年も若かったが、随分無茶をしたものだと、今ふり返ってみれば、そう思う。

然し、その頃の僕にしてみれば、これは決して、大食いなんてものじゃない、と思っていた。

大食い競争じゃない。第一、相手がいない、一人っきりである。そして、我慢して、苦しがって食うのではないのだ、一々を美味いと思って、味わいながら食うのである。だから、世に言う大食いとは違う。彼等は、大福を何百と食ったり、飯を何升とか食ったりするのだが、それは、もう美味くも何ともないに違いないし、同種類の物を、やたらに詰め込むというのは、下品なことだ。俺のは、違う種類の色々なものを、順序よく食うのであるから、上品なスポーツだ。そんな風に思っていたのである。

ところが、このスポーツも、一人の時は、よかったが、同じテーブルで誰かと一緒に食う時は弱った。

喜多村緑郎先生が、食堂へ入って来られて、丁度いいから、一緒になろうというんで、お話をしながら、同席することになった。と、僕のところへだけ、スープが、コンソメから、ポタアジュと運ばれるので、「おや?」と、喜多村先生は驚かれた。「いや、実は——」と言って、一々その説明をするのが、辛かった。

然し、本当のことを言えば、毎食毎に、メニュウを全部平げていた日には、腹具合は兎も角として、倦き倦きしちまう。種類は、いくら多くても、結局は、西洋料理なんだから、うんざりして来る。

然し、意地ってものがある。途中から、全コースというのをやめるのは嫌だ。又その頃の富士屋には、日本料理の定食もあったんだが、それを食うことも恥とした。いよいよ苦しくなったら、滞在を切り上げて、帰るべきだ、という悲壮な気持だった。で、そうだな、かれこれ一週間、苦行を続けたと思うんだが——苦行とは言っても、やはり美味いものは美味くって、苦しみつつも、毎食一品位は、喜んで食ったものだ、——そして、一週間目位に、全身洋食の如き感じになり、もはや、堪えがたしと覚えた。で、富士屋ホテルを去って、熱海へ出た。

熱海の日本宿で、朝食を食った時、ああ、こんなに、日本食ってものは、うまいものか! と感嘆した。

コーヒーとトーストに、ハムエッグス、ベーコン等の朝食から、熱海の名物の干物、納豆、みそ汁に、生卵という朝飯の、ああ何とも言えない、うまさであった。

それは、日本人の幸福とも言えた。

又、富士屋ホテルの美味地獄から、解放された悦びでもあった。

 

そして僕は、今年の三月十七日に、富士屋ホテルに一泊した。

着いたのが、夕方だったので、部屋に落ち着いて、バスに浴したりしている間に、もう八時近くになってしまった。食堂は、八時半までで閉まる。グリルの方は、十時半頃まで開いているときいたので、それじゃあ、今夜は、グリルの方にしよう。八時半迄というんじゃあ、気が急くから、食堂の方はやめにして。と、連れにも、そう言って、ゆっくり構えた。

八時廻った頃に、部屋を出て、グリルの方へ歩いて行くと、ボーイが、「グリルでございますか。食堂へいらした方がサーヴィスが、よろしうございますが」と言った。

でも、気が急くからね、と、それを聞き流して、グリルへ行く。

グリルも、昔とは場所が変った。前は食堂の上の方の、小さな建物だったのが、今度は、場所が変って、ずっと大きくなっている。

そのグリルへ入った途端、これは殺風景だなあ、と驚いた。食堂の、落ち着いた感じと比べると、この方は、ひどくガサツだ、悪く言えば、ステーションの食堂へ入ったような感じなのだ。そして、ボーイたちが、訓練されていず、モソモソしていて、入った時から、もう落ち着かない。

ああ然し、それもこれも、思えば、このホテルにしてみれば、十年間ほどのブランクがあったのだからな。アメリカさんの接収の間は、やはりこの若いボーイ達が、サーヴィスしていたのであろうか、或いは又、この若者たちは、去年再開後に雇われて来たものか。

兎に角、サーヴィス道も、一年や二年で、会得出来るものではない。十年前と同じようなサーヴィスを、求める方が無理だった。

さればこそ、さっき廊下で、ボーイが、食堂の方が、サーヴィスがいいと言ったのであったか。

サーヴィス道を心得た者は、食堂に働いていて、グリルは、ニュウフェイスばかりなのかも知れない。

兎に角、席に就くや否や、それが気になったので、今宵の食事は、辷り出しが悪かった。

殺風景な飾り付けも、アメリカ人向きの、衛生的装飾かも知れない。

メニュウを見ても、アメリカ的影響が大きく見られた。

ジョニーウォーカーの、ハイボールを取って、オードヴルから始めた。

オードヴルには、アメリカ的影響は無かったが、特徴のない、平凡なもの。

鶏の唐揚げ、というのが、メニュウにあって、アメちゃん好みで、きっと、よく出るんだろう、と思って試みたが、これも頗る平凡だった。

メニュウを尚も漁って、ロースト・ビーフがあったから、それを註文。

ロースト・ビーフ(無論ホットの方)は、大きくはあったが、桃色の、嬉しい肉ではなくて、色が憎々しかった。これは然し、今考えてみると、照明のせいもあったかも知れない。

ホースラディッシュは附いていたが、ヨークシャープディングは添えてない。それはまあいいとして、この味、何うにも、うまいとは言えなかった。

その味気ない、ロースト・ビーフを食いながら、僕は思ったのだ。

すべては、アメリカ人向きなんだ、これは。殺風景な部屋の飾りも、照明も、食物の味も、みんな、アメリカ式になってしまったのだ。

先代の山口大人が生きていたとしてもこの流れには抗し難かったに違いない。誰が悪いのでもない、戦争に負けたのが悪いのである。

かくて、グリルは失望に終った。そして、僕は、朝食を、本食堂で食うのを、たのしみにして、寝たのであった。
翌朝。食堂へ入る。女の子が、サーヴィス。これは、行き届いていて、先ず気持よし。

メニュウ持つ手も、たのし。

然し、(ああ、然し)この朝飯のメニュウにしてからが、アメリカ然としていることを、何うすることも出来なかった。

昔のここの朝飯のことは、判然覚えていないが、何うも、こんな風では、なかったようだ。

トマトジュースを書き出しに、ジュースの数は、やたらに多い。然し、これらを皆飲んでみたところで、面白くはあるまい。

よっぽど僕は、昔に返って、このメニュウにあるもの皆持っといで、と言いたかったが、その元気が出なかった。
うまそうだな、と思うものが、無いんだもの。

これは僕の記憶違いであろうか、昔は朝から、ビフテキでも何でも出たように思うんだが——今は、魚は、フライだけだ。卵の種類は色々あるが、卵は、何としても卵だ、つまらない。

で、僕は、コーヒーを、ふんだんに飲み、(自ずと、アメリカ流になる)パンは、トーストの他に、マフィンも貰い、オートミールから、スパニッシュ・オムレツ。それで、おしまい。

これじゃあ、全く物足りないし、第一腹が張らない。そこで、又、メニュウを何度も見て、シナモン・トーストを一つ。

これも亦、アメリカの味に違いあるまい。

アメリカ式なんだろうか、肉のものが出ないのは。

そうだっけ、昔は、ここの朝飯に、コーンビーフ・ハッシュってものが出た。あれは、うまかった。今は、メニュウに無い。

何もかも、アメリカのせいにするわけじゃないが、この朝飯の物足りなさは、やっぱり、アメリカのせいだろう。
まことに、頼りなきままに、食堂を出ると、僕は、台所の方へ歩いて行った。

富士屋ホテル長年の料理長、小島君を訪れたのである。

小島君は、台所の奥から出て来て、やあしばらく、と言って呉れたが、何うも僕は、機嫌が悪くて、お愛想が言えない。

何となく、嘆かわしいというようなことばかり言っていたようである。

敗けた日本ばかりじゃないんだ。アメリカ式、合理的、衛生的という行き方は、もはや全世界に、放射能の如く流行っているんだ。

富士屋ホテルも亦、その渦中に巻き込まれないわけには行かなかったのである。

僕は、連れのスポンサー氏に、せめてもう一食、昼飯を此処で食って行こう、と言ったのであるが、彼は、やっぱりこの朝飯に、すっかり懲りたらしく、

「いや、もう早く熱海へ行って、重箱のうなぎを食いましょう」

と言うではないか。

で、私たちは、(いや、私ばかりは)心ならずも、その昼には、熱海へ到着して西山の重箱で、うなぎを食っていたのである。

「これで、日本を取り戻した」

そう思いながら。

古川 緑波(1903年-1961年)
東京都生まれ。雑誌「映画時代」の記者であったが、菊池寛の勧めで役者に転じる。のちに東宝に引き抜かれ、1935年には「ロッパ一座」を結成し、「ガラマサどん」で人気を博す。哀愁漂う爆笑劇を次々に発表したことから「丸の内の笑王」と呼ばれ、第二次世界大戦末期に全盛を誇った。