夏日小味(北大路魯山人) | 美味しい文学
「美味しい文学」では、読むとお腹がすく、食いしん坊のための名作文学をご紹介します。今回取り上げるのは、北大路魯山人の夏日小味(1931年初出)。夏の暑さが続く日に試してみたい、魯山人ならでは「通」なメニューの数々が並びます。
夏の暑さがつづくと、たべものも時に変ったものが欲しくなる。私はそうした場合、よくこんなものをこしらえて、自分自身の食欲に一種の満足を与える。
雪虎――これはなんのことはない、揚げ豆腐を焼き、大根おろしで食べるのである。その焼かれた揚げ豆腐に白い大根おろしのかけられた風情を「雪虎」と言ったまでのことである。もし大根おろしの代りに、季節が冬ででもあって、それがねぎである場合には、これを称して「竹虎」と言う――京都での話である。
これはまったく夏向きのもので、朝、昼、晩の、いずれに用いてもよい。まず揚げ豆腐の五分ぐらいの厚さのもの(東京では生揚げと称しているもの)を、餅網にかけて、べっこう様の焦げのつく程度に焼き、適宜に切り、新鮮な大根おろしをたくさん添え、いきなり醤油をかけて食う。
分量と器を、その場その場で加減し、注意さえすれば、単に自家用の美食に止まらず、来客に用いても、立派な役目を果たすのである。そして美味くできれば、その味、簡適にして醇乎、まことに一端の食通をもよろこばすことができる。なまなかてんぷらなぞ遠く及ばない。そして、これを美味く拵えるコツは、よい揚げ豆腐を手に入れることは言わずもがな、新鮮な大根を求めることにある。
錦木――京の木屋あたりで流連でもしたご経験のある方なら、先刻ご存じのもの。宵の遊び疲れで、夜の明けたのも知らず、昼近くなって、やっと重い頭を持ち上げ、蒲団着て寝たる姿や東山
目前に加茂川の清い流れのせせらぎを耳にしつつ、どうやら眼の覚めて、用意の控えの座敷に直ったとき、にこにこ、ぞろぞろ這入ってきた紅裙こうくんさんたちの年頭としがしらが言う、
「お早うさん……」
の次は、直ちに、
「今朝、なんでまま(御飯)おあがりやす。今日は、あっさりと、錦木でままおあがりやすな」
とくる。この錦木でまま食べて、はじめて、ために心気爽然となるちょう代物なのである。
上等のかつおぶしを、せいぜい薄く削り、わさびのよいのをネトネトになるよう細かく密におろし、思いのほか、たくさんに添えて出す。で、これが食い方は、両方適宜に自分の皿に取り、ざんぐりと箸の先で混ぜて醤油を適量にかけ、それを炊きたての御飯の上に載せて、口に放り込めばよいのである。同時にアッと口も鼻も手で押えて、しばし口もきけないようなのが錦木の美味さである。この場合、浅草のりなぞを混ぜてもよいが、むしろそれは野暮であろう。最高の錦木とは、上等のかつおぶしの中心である赤身ばかりを薄く削ること、太いよいわさびを細かいおろし金で密におろすこと。御飯をこわくなく、やわらかくなく、上手に炊くこと。そして炊きたてであること。食器は平らな皿に入れないで、やや深目の向付に盛ることである。
錦木と称するのは、削ったかつおぶしの片々を、木の錦木のへらへらになぞらえたものにほかならないと思う。
白瓜の皮――白瓜、これはあさうりとも、また越瓜ともいう。白瓜を賞味するのはこれから当分の間である。この白瓜を薄葛の汁椀なぞにつくる場合、大概はその皮を剥いて捨ててしまうものであるが、その捨ててしまう皮を食前一時間、糟味噌に漬けて、それで一番美味く漬けもの通になりすまそうというのである。
パリパリと舌ざわりよく、色青くして、夏の夕餉には、それこそもってこいである。酒やビールの肴にも申し分ない。この料理は、昔から京都人の日常生活に入っている漬けもの中の一名案なのである。京都のひとびとは、よく知っておられるはずである。
鰹中落ち味噌汁――かつおの刺身をつくる場合、かつおを三枚におろすと、中の一枚はいわゆる中落ちである。この中落ちも大概は打ち捨てることが多いようだが、これを捨てないで、骨付きの残肉を、はまぐり貝かなにかでこそぎ取る。こそぎ取った肉が三とすれば味噌七ぐらいの割合でいっしょにしたものを、擂鉢でよくすり、裏漉しせずに通常の味噌汁を拵えると同じ方法でこれを拵える。なべの味噌汁が最初に沸騰したとき、上に浮いたアクをすくい取り、直ぐに椀に盛って出す。この際、しょうがの絞り汁二、三滴落とせば、さらに妙である。中身には大根の千切りなどが調和するようである。
白瓜の皮の浅漬けと言い、かつおの中落ちの味噌汁と言い、ともに食通をアッと言わすだけの立派な料理であるから、ご存じなき向きは、ゆめゆめ廃物利用だなんて薄っぺらな頭を持たないで、これこそ立派な意味ある料理だとの首肯から、ぜひとも試みてもらいたいものである。
北大路 魯山人(1883年‐1959年)
京都生まれ。陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家という多彩な経歴を持つ。料理に興味を抱き各地で修業を重ね、1925年東京に会員制の高級料亭「星岡茶寮」を開き、美食家として名をはせた。