八の字づくし(古川緑波)| 美味しい文学
「美味しい文学」では、読むとお腹がすく、食いしん坊のための名作文学をご紹介します。今回取り上げるのは、古川緑波の八の字づくし(1959年初出)。戦前、戦中は名古屋の食が好きではなかったという緑波ですが、戦後の名古屋では、なぜかいずれも「八の字」がつく名店の味にすっかり魅了されます。
名古屋ってとこ、戦前から戦争中にかけて、僕は好きじゃなかった。名古屋へ芝居で来る度に、ああまた名古屋か、と、くさったものだ。というのは、食いものが、何うにも面白くなかった。
一口に言えば、名古屋ってとこ、粗食の都だったんじゃないか。それが、戦後は、変りましたね、食いもの屋の多いこと、贅沢になったこと、驚くべし。
だから、戦後は、名古屋行きは、苦にならない。
まず、宿へ着いたら、八丁味噌の汁を、ふんだんに、と、たのむ。それも、身は、他のものでは、いけない。里芋に限る。それも、東京式に、小さな里芋を、まるごと入れたんでは駄目、短冊(?)に切った奴。朝食には、その八丁味噌汁の三杯汁だ。
それに名古屋で嬉しいのは、抹茶が何処でも飲めること。大抵の宿屋で、すぐ作って呉れるから、これも三杯汁の式で、毎朝、何服と行く。
名物のういろうが、お茶に合います。納屋橋まんじゅうも結構だ。
併し、これらの味は、戦前から、あったもの。戦後に、名古屋が食い倒れの都と化した、その一番先きは、洋食じゃないだろうか。
僕が脂っ濃いもの好きで、淡(あっさ)りした日本料理を解さないせいかも知れないが、洋食店が、殖えたことは、名古屋の変化の、一つの大きな現象だろう。
戦前、名古屋で、洋食と言ったら、老舗の中央亭、朝日ビルのアラスカ、観光ホテル、ぐらいのものではなかったか。
そりゃあ、名古屋にだって、得月とか、何とか、上等の、うまいもの屋は、あった。けど、そいつは、脂の好きな僕には、縁がなく、せいぜい、加茂女の豚の角煮ぐらいしか覚えていない。
それが、戦後の名古屋の洋食は、ワアッとひらけた。
町名を忘れたが、今松というグリルが、戦後の洋食の草分けではないのか。これが、松阪屋裏の、バンガローとなって、こくのあるフランス料理を食わしたもんだが、今松もなくなり、バンガローは、喫茶店になったとかきいたが。
八雲って店も、「先生」と呼ばれる、老チーフが、科学実験してるみたいな顔で、眼の前で料理するのが、たのしかった。
八千代の、ビフテキも、結構である。東京へ出したって、立派だ。
八百文という店を御存知か?
名宝前の小さな、古風な洋食屋だが、ここのタンシチュウは、実にいい。量も、たっぷりで、昔流の味だが、うまくて、安い。僕は、名古屋へ行く度に、必ず食っている。
と書いていて、今、僕の列記した店の名前が、みんな、八の字が附いていることに気がついた。八雲、八千代、八百文。
もう一つ、八の字を追加すれば、天ぷらの八重垣だろう。これは、洋食じゃあないが。
これも町名不詳。最近八重垣へ行ったら、おかみさんが、「高い天ぷら食べて下さいますか」と言った。僕が曾(かつ)て此の店のことを、何かの雑誌に、天ぷらは、うまいが、高い高いと、もっとも、それは戦争はるか以前のことなんだが、そう書いたのを、読んだらしい。
その頃は、全く高かったんです。
では、今は如何というと、今は、うまくって、お値段も安い。そう書けば、おかみさん、文句ないだろう?
古川 緑波(1903年-1961年)
東京都生まれ。雑誌「映画時代」の記者であったが、菊池寛の勧めで役者に転じる。のちに東宝に引き抜かれ、1935年には「ロッパ一座」を結成し、「ガラマサどん」で人気を博す。哀愁漂う爆笑劇を次々に発表したことから「丸の内の笑王」と呼ばれ、第二次世界大戦末期に全盛を誇った。