優雅な秋の味覚「栗」は、中世イタリア庶民の命を繋いでいた|食の起源
空が高くなり秋の空気が漂い始めると、イタリアでは秋の夜長に栗を炒って赤ワインと食する風習がある。暖炉でぱちぱちとはぜる栗の音、香ばしい匂いが家の中に満ち、冬も近いことを実感するのである。栗を使ったレシピはイタリアに多いが、それは貧しかった時代にあって栗が人々の命をつないできたことにも関係がある。栗の愉しい歴史をみてみよう。
古代では評価が低かった栗
今でこそイタリアでは各地で栗祭りが行われて人々に愛されている栗は、古代の地中海世界ではそれほど珍重されていなかった。その理由は、どこにでも自生してあまりに身近にありすぎたためで、栗とどんぐりを見分ける言葉さえ存在していなかったという。著名人たちの栗に関する記述も少なく、わずかに古代ローマ時代の農学者コルメッラ、博物学者プリニウス、医学者ガレノスが育て方や栄養になどについて数行を書き残しているだけである。
栗が見直された中世
いっぽう中世になると、栗はがぜん存在感を増すことになる。643年に発布されたロターリ王法典では、「栗、クルミ、梨、りんごの木を勝手に伐採した者は罰金刑に処す」と書かれている。そのころの栗の木がはたして野生のものであったのか栽培されたものであったのかは不明だが、10世紀を超えるころには栗は確実に人の手によって植えられるようになった。人口の増加とともに、栗は貧しい人たちのお腹を満たす重要な食材となったためである。
1298年にピエモンテ州のある村が発布した法律では、農民に小作権を許す条件として「山に栗の木を植えること」とある。当時は栗の実を粉にしてパンにすることが多かったほか、栗の実の活用法は多かったらしい。栗の粉は膨らみにくいため小麦で作るパンほどの美味ではなかったものの、栗はやがて「パンのなる木(L’albero del pane)」と呼ばれるようになるのである。腹持ちが良いことも農民にはありがたかったに違いない。こうして、イタリア半島の山間部には栗の木が激増することになったのである。
保存性の高い栗
栗が貧しい人たちのあいだで大事な食材であった理由は、保存性の高さもあげられる。栗が豊作であった場合は、その後の数か月は飢えの心配がなかった。16世紀の農学者アゴスティーノ・ガッロは「山間部において栗なしの生活など考えられない」と述べているほか、トスカーナの山の町クティリアーノの村長も1553年の日記に「わが町は貧しすぎる。村民の8割は1年中 カスタニャッチョ(栗の実とオリーブオイル、干し果物で作るパン)を食べている」と記している。しかし少なくとも栗さえあれば、飢える心配はなかったのである。クティリアーノは現在も栗の町として知られ、町のお祭りとなると「ネッチ」と呼ばれる栗の粉から作ったクレープが登場するのである。
ところで、カビが生えやすい栗を当時の人々はどうやって保存していたのであろうか。保存法には2つあった。ひとつはイガのまま保存する方法、もうひとつは天日干し、あるいは火で乾燥させる方法であった。
熟して落下した栗は収穫後15日以内に食べる必要があると書いているのは、14世紀の農学者のピエトロ・デ・クレシェンツィで、これは現在と変わらない。イガに入った栗を収穫すれば放牧されていた豚に食べられる心配もないうえ、翌年3月までは保存できたという。また、冷暗所に砂を入れた壺を安置し、その中に栗を埋めておくという方法もあった。もうひとつの 乾燥法は、収穫した栗の実を網にのせて数日間石のように固くなるまで乾燥させて粉に挽いていた。この乾燥栗は2年も保管が可能であったという。
飢饉の年は栗の輸出禁止!
こうして栗の収穫が断続的に行われるようになると、都市部に 住む富裕層も好んで栗を食べるようになった。売るほうも工夫を凝らすようになったのか、栗を乾燥している過程で籠に移しバラの花とともに盛って香りづけをしたという記録もある。
長期保存に耐えるということは長時間の輸送にも耐えるわけで、イタリア北部ロンバルディアの栗がパリの市場で見られたり、南イタリアカンパーニア州産の栗が海を越えたコンスタンティノーポリにあることも珍しくなかった。
とはいえ、栗はともかくも飢えを満たすことが先決であったため飢饉の年は輸出が禁止されていたことが、1593年のボローニャの法令からわかっている。
中世版 栗の美味しい食べ方
栗の実をパンにする以外に当時の人々がどのように栗を食べていたかも興味があるところである。
炒ったり茹でたり揚げたりと調理法はさまざまで、また生でも食べていたようである。
一般的に茹で栗は子どもたちのおやつであったそうで、炒った栗にはオリーブオイル、塩、胡椒、柑橘類の果汁をかけることが多かった。
料理に使用することも多く、肉料理にする場合は渋皮も除去した栗を牛乳に漬けて鶏肉や干し果物を料理するというモダンなレシピもある。栗と肉の組み合わせは、現在のイタリアでも秋の風物詩として登場することが多い。豆とともに煮込んだスープも同様である。
もちろん、栗はスイーツとしても活躍した。前述したカスタニャッチョはその代表であるが、17世紀の農学者ヴィンチェンツォ・タナーラのレシピでは、栗の粉とパルミジャーノチーズ、数種のフレッシュチーズを加えて、バターを敷いたフライパンで焼くというものだ。なにしろ庶民の食材であった栗は、記録に残らないお菓子のレシピも多い。秋に各地を旅すると、こうしたお菓子に出会うことも多いのである。
また、フランスの菓子というイメージの強いマロングラッセは、イタリア北部ピエモンテ州からフランスにかけて普及したお菓子である。フランスでは、1667年にヌーヴェルキュイジーンの騎手といわれたフランソワ・ピエール・ラ・ヴァレンヌが世に送り出したと主張される。いっぽうイタリアでは、18世紀にサヴォイア王家の宮廷で生まれた菓子といわれてきた。
地中海世界以外の栗
そもそも栗は、地中海以外にもアフリカ大陸、小アジアなど広範囲にわたって自生する樹木であった。そのため、アメリカ大陸から じゃがいもが到来する以前はイタリア同様に、各国の貧しい人々のお腹を満たす食材として栗は重宝されていたのである。
また、アメリカ大陸にも在来種であるアメリカグリ(Castanea dentata)という品種が存在していた。20世紀初頭、中国やヨーロッパからさまざまな品種が到来し、アメリカグリの木はニューヨーク州を中心に病原菌による壊滅的な被害を受ける。わずかに大西洋沿岸部の栗がこの害を免れて生き残った。21世紀に入り、中国やイタリアから栗の木が新たに輸入され、アメリカグリの再生への試みも続けられている。
日本の栗
日本の秋も、栗の銘菓によって彩られる。栗きんとんや栗むし羊羹は濃く淹れた緑茶とことのほかよく合い、馬肥ゆる秋には格段に美味しい。
地中海世界と同様、日本も石器時代から人々が栗を食していたことがわかっている。奈良時代には持統天皇が栗の植樹を命じていることから、日本でも大切な食材として遇されていたのだろう。
戦国時代には、出陣する武将 にはアワビや昆布とともに栗を食べて景気づける風習があった。「かちぐり」が縁起を担ぐとされていたためである。
日本には西洋の栗と区別するために「和栗」と呼ばれるカテゴリーがあるが、近年はさまざまな品種の交配が進んで、甘くておいしいだけではなく皮が向きやすいなどのメリットも持つ新品種が次々と登場している。「いもくりなんきん」の美味は、老若男女の秋の喜びではないだろうか。
イタリアの片田舎で書籍に埋もれて過ごす主婦。イタリアに住むことすでに十数年、計画性なく思い立ったが吉日で風のように旅行をするのが趣味。美術と食文化がもっぱらの関心ごとで、これらの話題の書籍となると大散財する傾向にあり。食材はすべて青空市場で買い込むため、旬のものしか口にしない素朴な食生活を愛す。クーリエ・ジャポン、学研ゲットナビ、ディスカバリーチャンネルなど寄稿多数。